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総会屋事件で命を絶った第一勧銀・宮崎邦次が振り返った「バブルの教訓」 - ダイヤモンド・オンライン

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不朽_宮崎邦次第一勧業銀行頭取
 1991年、バブルがはじけた経済下で始まったインタビュー連載「バブルの教訓・ニッポンの再出発」の第2回に登場したのは、第一勧業銀行(現みずほ銀行)の頭取、宮崎邦次(30年1月15日~97年6月29日)だった。バブル期にまん延していたずさんな融資や、金融業界の不祥事に関して、宮崎は「金融機関は、さまざまな社会組織の中でも一段と高い倫理性と公共性を求められていることを徹底すること、今後努力すべきことは、その一語に尽きる」と述べている。

 しかし、このインタビューから6年後の97年、宮崎は金融疑獄の当事者として注目を浴び、自ら命を絶つという最期を迎えることになる。

「企業に寄生して不当な利益を得ている総会屋を排除する」ことを目的とした改正商法が施行されたのは82年10月。新商法の下では総会屋などへの利益供与が禁止されたが、当時はそれが原因でトップが辞任するという事態はなかった。改正商法施行後、初めて総会屋問題でトップが辞任したのは、92年のイトーヨーカ堂事件。続いて翌93年にはキリンビール、96年に高島屋、97年になって味の素、野村證券と相次いでトップが辞任に追い込まれた。

 第一勧銀の総会屋利益供与事件が明らかになったのは、そんな時期のことだった。97年5月、東京地検特捜部が第一勧銀本店、歴代総務部幹部宅などの家宅捜索に踏み切った。後に総額460億円に上る資金を総会屋に提供していたことが明らかになった、金融史に残る大事件だ。

 事件の背後にいた大物総会屋と第一勧銀の歴代トップとの間には、20年以上にわたる交際が引き継がれてきたとされる。そして、88年から92年まで頭取、会長を務め、当時は相談役となっていた宮崎とも70年代後半から交遊があったとみられていた。

 宮崎は当時の本誌の取材に「代々引き継がれ、わざわざ敵に回すことがないから会っていたくらいのこと。私が知ったときはもう枯れていたし、世間話をした程度」と、深い依存関係について否定していたが(「週刊ダイヤモンド」97年5月31日号)、事件の鍵を握る人物として、東京地検は宮崎に厳しい取り調べを行っていた。

 そして取り調べのさなかであった 97年6月29日、宮崎は東京都三鷹市の自宅で首つり自殺した。第一勧銀首脳に宛てた遺書には「真面目に働いておられる全役職員そして家族の方々、先輩のみなさまに最大の責任を感じ、(中略)身をもって責任を全うする決意をいたしました」としたためられていた。

 97年はその後、山一證券の自主廃業など金融機関の破綻が相次いだ。日本が暗鬱たる空気に覆われていた時代である。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

よき企業市民としての
銀行員教育が必要

――なぜこんなにも、金融機関に不祥事が頻発するのでしょうか。

 銀行が当然のこととして自覚すべき公共性、社会的使命が、末端まで徹底されていなかったと自戒しなければならないと思っている。異常な金融緩和による資金余剰という、運用先を探すためにいろんな工夫をしなければならない背景はあったが、そうした環境変化を乗り越えていく倫理性を、もう一度徹底する努力をしていかなければなりません。

――銀行の犯罪は、以前は、末端の行員がちょっとしたことから間違いを犯すケースが多かったが、最近は、支店長など管理職が多くなってきている。金融機関全体のモラルを低下させる構造的な要因があるのではないでしょうか。

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September 23, 2020 at 01:35AM
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