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新世紀音楽研究所と銀巴里セッション…俊英たちが模索した新しい音 - 読売新聞

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 1961年の大物ドラマー、アート・ブレイキー来日、“日本版ブレイキー”と言える白木秀雄(ドラムス)の活躍、さらにジャズの新しい潮流、乗りのいいファンキージャズ(ハードバップ)人気が相まって、久々の盛り上がりを見せた日本ジャズ界。しかし、ほぼ同時期、そういった大衆路線とは一線を画した動きが静かに始まっていた。

 日本の独立回復に伴う在日米軍の縮小によって、ジャズ・ミュージシャンの米軍関係の仕事が激減し、「楽器が弾ければ食うに困らない」という幸せな時代は幕を閉じた。これに歩調を合わせるように、進駐軍ジャズに端を発する戦後ジャズ黄金期も 終焉(しゅうえん) を迎えた。50年代後半には一部の一流どころを除くと、活動が容易ではない時代になっていた。特に若手にとっては、存分にジャズを演奏できる場がないという状況だった。

 そんな58年頃、ギタリストの高柳昌行らがシャンソン界の知己を介して、東京・銀座のシャンソンの殿堂「銀巴里」と掛け合い、金曜日の昼間をジャズ演奏の場として提供してもらうことになった。さらに高柳は、「米国の模倣ではない、新しい日本のジャズの創造」を旗印に、盟友・金井英人(ベース)らとともに新世紀音楽研究所を設立。銀巴里を拠点に、菊地 雅章(まさぶみ) (ピアノ)、日野 皓正(てるまさ) (トランペット)、富樫雅彦(ドラムス)といった若手とともに、新たなジャズの姿を模索することになった。サックスのマウスピースをトランペットにつけて吹いたり、突如裸の女性が舞台に乱入し、それに奏者が音で反応したりといった実験的な試みも行われた。

 「前衛的な音楽集団で、いち早くフリージャズを試みていたと、とらえられることが多いのですが、実際は正面からジャズを追求するきまじめなグループだったと思います。ただ、他人の模倣ではない、自分自身の語法でアドリブを展開することは求められました。例えば僕は当時、ハンプトン・ホーズというビバップ系のピアニストにあこがれていて、どうしても彼を手本にしたピアノを弾いてしまいがちでしたが、そういったアプローチを許さない雰囲気がありました」

 62年に参画することになる山下洋輔(ピアノ)はこう振り返る。

 研究所の活動をうかがい知る唯一の音源が「銀巴里セッション」。彼らが 研鑽(けんさん) を積むため、63年6月26日深夜から翌早朝にかけて行われたセッションの記録だ。レコード化を想定したわけではないが、ジャズ愛好家として知られる内田修医師が私的に録音しており、72年になってそれを基にLPとして発売された。この経緯はやはり来場者が録音し約20年後にレコード化された54年の「モカンボ・セッション」と重なるのだが、本来世に出ることのなかった日本ジャズ史を彩る貴重な記録が残ることになったのは、まさに 僥倖(ぎょうこう) と言えるだろう。

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October 07, 2021 at 08:00AM
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